2019年4月12日金曜日

違和感


先だって、どこかの有名なお寺でアンドロ

イドの仏像が披露されて、僧侶の方が、念

仏を上げておられた。マインダーというお

名前の仏像である。私は違和感がある。

阪大の研究室で作られた。室内はプロジェ

クションマッピングが設置され、幻想的な

光が舞う。目に仕込まれた内臓カメラで拝


む人の動きに合わせて動く。お話もしてくださる。アンドロイド仏であろうが、木像、石

仏、みな人が作った偶像であることに間違いはない。さらに、由緒正しい立派な仏像があ

るので拝みたいという人心が、ロボットという近代科学が生み出した立派な仏像を拝みた

いというのであれば、それはそれ。従来の概念と大きな差はない。仏像は数え切れないた

くさんの人に、心の声で一心に祈られ、拝んで拝み倒されて仏となる。ならば、マインダ

ー様もこれからたくさんの人に拝まれて仏になっていくのであろう。ただ、私が仏の前に

座し、天国の父母、祖父母、友人、塾生に思いをはせる時、また、自らの迷いを払拭しよ

うとする時、仏は私の心に直接語りかけてくださる思いがある。それは、折に触れ、時に

は戒め、慰めてくださる無辺のお慈悲であろう。おそらく、私の違和感はプログラミング

にあると思う。心の中の迷いが自分のものであるなら、戒めも、励ましも自分の心から、

教えを通して湧出してくる悟りであろう。悟りとはおこがましいが、悟ろうとする心意気

とでもしておこう。少なくとも、光で作られた幻想的空間やプログラムされた言葉ではな

いように思う。黙って物言わぬ仏像に自分の心を問う姿勢に慣れ、ロボット仏に違和感を

感じる私こそ、仏を選ぶ傲慢の域をでぬ凡夫なのであろうか。